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先月の変容も無事fineを迎えた。組織的にはまだまだ広がりを見せるようなものだった。
今月は自分の動機から。一つの選択肢として、先月の楽想を引き継ぐということもfineの連絡を福島諭さんに送る時に考えたが、もう少し考えようと思う。
夜中はwebern。日中の車中などではmiles davisのbox setを聴いている。こう言った大量の音源セットは実のところ散漫に聴いてそのまま放置していることがままある。今更気づくことも多い。結局milesの場合コルトレーン、ロリンズとやったものがこのboxの中でも存在感が突出してこちらに届く。英語で感動した時の表現として「you touch me」という表現があるが、まさにこちらに触れてくる、触れられているような存在感のある音楽。演奏。
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新たに出会った人たちからのお誘い(最近割に誘われるので少し驚いている)があり、その人たちは善き人たちでありそういった日々の中の変化に心安らかになることもあれば、先日書いたような程度の低い悲しい人に出くわす災難もある。これも世界の多様性故と、考察は可能ではあるが、もうこの歳になると安らかに過ごしたいものだと切に願う。それは作曲家として演奏家に出会うときもそうだし、演奏家として出会うときもそうだ。
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と、いった流れでmilesのboxで以前買って売ってしまったショーター・ハンコック・カーター・ウィリアムスの所謂黄金のカルテットのbox setを再購入。少しだけ聴いたがもうjazzの極北である。いや、音楽の極北の一つ。
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《変容の対象》2019年9月第13−14小節目を福島諭さんに送る。
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度し難い阿呆が女の場合、男は胸倉つかんで引きずり回す、、、というわけにもいかない。やったもん勝ち。ということは案外日常に潜んでいるものだと痛感するが、痛感などしたいわけでもなければ、こういうことは気づかないに越したことはない。階層というものは存在する。憐れなのは、その「程度」の絶望的な低さと、イマジネーションの無さであり、警戒心のなさであり、何よりその精神性の低さである。呆れるより他ない。
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《変容の対象》2019年9月第11−12小節目を福島諭さんに送る。
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コーマック・マッカーシーにもロード・ノベル的なものがあった。小説は面白かったが、映画はどうも間延びしていた。アメリカの作家と言えば、ピンチョン、デリーロだが、実はチャールズ・ブコウスキーが好きだったりする。
北斗の拳を読み始める。相変わらず超弩級に面白い。サウザーの「愛深きゆえに〜」はつとに有名だが、むちゃくちゃに人でなしなことに変わりはないのに、何故かそういった論理矛盾は吹っ飛んで読ませてしまう。
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《変容の対象》2019年9月第7−8小節目を福島諭さんに送る。
少し変化が出てきた。
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メガネの度数が合わなくなるのは決まって疲労、疲弊している時だ。
譜面を見るためのメガネが、見えれば何でも良いというわけではない。
なのでメガネがやたら増える。普段かけるもの、譜面、文字を追うもの、effectorなど数本持っていたが今は1本のみで、まだレンズは入れてない。でも結局昔american rag cieで買った太いセルフレームのものが一番好きなのである。太めと言われているものより、少し太い。その塩梅が絶妙なのである。その太さのものを探して買うが、良いのは良いがラグシーのよりは劣る。2、3年前からオークションで予備を探しているが全く見つからない。もう10年以上前の1年ほどウェリントンの太いフレームが静かに流行ったような時の代物。
昔、映像作家の前田真二郎さん、福島諭さん、僕とで新宿のゴールデン街で朝までバーを数件回った時かけていたもの。なぜ、それを覚えているかというと、写真があって、「福島さん、こんなん似あうんとちゃう?」とかけさせて撮ったものがあるからだ。ビル・エバンスのメガネ似合いまくりはつとに有名だが、あれはアメリカン・オプティカルのものだろうか。いや、違ったか。あの時代の有名な汎用のメガネだったらしいが。
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作曲家の福島諭さんと久しぶりに電話で話した。サックスの日課の練習を済ませ、少しよそに出て勉強をした日だったので、気分を軽くしてもらった。
一時間あまり話す。互いの近況などが主だが、必然音楽のこと、創作に関する思索の流れに沿って生きてゆく中で出くわす日々の出来事を通して、そこに必然的に現れる違和感について、乖離について名状しがたいことも話した。
福島さんによると先日、新潟の高橋悠、香苗夫妻、遠藤龍くんと集まった時、自分の話題で結構な時間話したと聞いて、ありがたいことだなと感じ入る。悠くん、香苗さんは立体など美術家(だけには止まらないが一応こう書かせてもらう。今度会ったらどういう表記が望ましいのか聞いてみることにしよう)で福島さんと発表を共にしているし、龍くんは映像作家である。遠方の地でそういう時間が流れていることはとても心強いし、また、彼ら、彼女の顔を思い出しもする。それは、そう、ウェーベルンのピアノ・カルテットあるいは、スロウムーブメント・フォー・ストリングカルテットのような強力な「何か」を誘発する音楽のようだと。