hamaji junichi

composer saxophonist

12月2日。天王寺から故郷に帰る電車の車中。様々な事象イメージが輪郭をもつことなく脳の内部を急速に流れる。「変容の対象」2012年度版初演に際して新潟の地を訪れた際の現実の映像がカットアップのようにフィードバックを起こすが、それらが輪郭をもたずに、このように現れるのは何故なのか、、、普段は、またこれまではこういったことはなかったはずだ。それらは常に輪郭をもっていた。単に疲れているだけなのか、また別の要因によるものなのか、、、夜。車窓から見える外部は延々闇の連続体が走る。


11月29日。朝、新潟に向かうため最寄りの駅のホームに立つ。見慣れた風景だが見知った人はいない。ここに住んでいながら意識は自身の内部に留まっているか、または遠く離れた場所にしかない。作曲という行為がもたらす外部との接触、または演奏という行為がもたらす外部との接触。生活がそれら全てで埋め尽くされることなどあり得ないとはいえ、やはりある種の感慨を持たざるを得ない。目の前の風景は意味など持たずただそこに在る。静かに電車がホームに到着し、乗り込んだ。「新潟は今日は雪です」福島諭さんからのメール。流れるここ南国のある種牧歌的な風景には雪の気配など微塵もなく、陽がさす。それを横目で見ながらドン・デリーロ「ボディー・アーティスト」を開く。アメリカ文学ポストモダンの文脈の流れから、、、今や巨匠であり、、、という事実とは無関係にその見事な冒頭の文章に静かな驚きと絶望的に美しいそれは、音楽で言えば信じられない主題、、、もしくはペンデレツキのソロ・ヴィオラ曲「CADENZA」のあの目眩のするような不協和音が現れる瞬間を目の当りにした時のように心を揺さぶられる。天王寺に着き、バスで伊丹空港に向かう。幾分天候はくずれ、大阪の街もダウンジャケットを着込んでも差し迫った寒さが皮膚に緊張を強いる。前日の譜読みで数時間しか眠れず、少しばかり狭い航空機の席で1時間ほどの仮眠を貪る。目覚めれば眼下には暗い新潟の海が広がっていた。新潟駅に着き、近くの書店でマルグリット・デュラスなどを買い、雪が雨に変わった新潟の夕刻のなかホテルに向かった。ホテルから明日の会場であるスペースYの道順を確認するため少し歩く。早めの夕食をとり、自分にはなじみのない類いの寒さから逃れるようにしてホテルに帰る。数時間後、福島さんと「変容の対象」2012年度版の抜粋7曲の譜面を電話越しに再度確認しあい、眠る。午前0時を過ぎていた。明日は福島さんは飛谷謙介さんの結婚式に滋賀に向かう。この譜読みは明日自分ひとりで初演を見届ける故の作業だった。

11月30日。12時過ぎにホテルを後にし、スペースYへ。歩いて3分ほどの場所。ホテルを予約するとき新潟駅から見て万代橋を起点に川向こうか、こちらかで迷ったが、会場が川のこちら側だったので適当に選んで予約したのだが案外会場と近かったのは偶然にしてはなかなかの偶然度合いで楽ではあった。バス移動、タクシー移動が頻繁に必要となるとそれだけで滅入る。川向こうは古町で、新潟の繁華街の中心地であるから新潟駅周辺よりは歩いて楽しめるのだろうが、今回は遊びに来たわけでは無論ないので、利便性優先で宿泊の起点を定めた。後々様々な待ち合わせの時間まで一人で空きを埋めるのに苦労したが、致し方ない。会場に着いた。昨年の「越の風」も同じ会場で1年という月日は長いのか短いのか、判断に苦しむが1年ぶりにしてはその場所の印象は親近感をもって眺めることができるようだった。7階に上がり、ゲネに向かう。多田望美さんの作品「ぼんぼり」フルートとピアノのために/のゲネを拝見して、そのイノセントな美しさが広がる楽想に触れていると、サクソフォン奏者の五十嵐文さんが到着され演奏の邪魔にならないように挨拶をする。はじめましてであるが、音は事前に福島さんから届いていたからあまり初めて会うような緊張感は無く、しかしこれから始まるゲネが最終確認でもあり僕にとっては初めて生で聴く「変容の対象」2012年版なのでそういった緊張感はまた別にあり、奇妙なバランスの心理状態と言えるのかもしれないが、こういうのは流れが自然にできてゆくものでもあるので深く考えたり、妙に構えたりしても仕方がない。ピアノ奏者の品田真彦さんも会場に来られて、ゲネに入った。ゲネ前に少し五十嵐さんとは演奏に於いて少し試してほしい箇所など進言してはいたが、奏者の側からはこれまで準備段階に於いて構築してきた考えもあり、対話によって、また実際の演奏自体がそれらを具体として現すのを見て、互いの焦点を合わせる作業に進む。ゲネが進み、一通り通した後、譜面に書き込んだ問題と思われる箇所を再度確認し、終えた。昨年の2011年度版12曲の広瀬寿美さん(クラリネット)石井朋子さん(ピアノ)のリアライズの様相と、今年の奏者のお二人のそれとの差異も頭を掠めた。譜面というメディアをリアライズする段階に於いて奏者の固有性は絶対領域のごとくその様相に影響を与えるものであるけれど、言葉で伝えられる領域は思ったより広くはない。おおよその全体像はもう既に構築されており、2、3譜面を介してお二人と話すが、後は本番に委ねることにした。その後、五十嵐さん、品田さんとたわいもない会話をし、互いを知る時間をとった。そちらの方が重要だと思われたからだ。五十嵐さん使用のアルトサックスはクランポンのプレステッジ。この楽器を使う奏者を初めて見たと伝えた。聞くと五十嵐さんの先生及び周辺の奏者は皆そうだと言う。フランスに行かれて学ばれたそうだからそういったこともあるのだろう。自分のbuescherも珍しいが、クランポンとは。高価であることでも有名だ。クラリネットではクランポンは名だたる演奏家が愛用することで有名だ。プレステッジとなるとその最高機種なわけで、サックスも同じだ。この世界ではselmer、次にyanagisawaあたりが愛用者は多い。確かに操作性など現行の先端をいっているし、つくりも素晴らしい。buescherなんて操作性だけを考えれば今の楽器の足下にも及ばない。クランポンもkey配列は横目で見たら現行のようだったし、操作性は優れているのだろう。管体は有名な銅製で、楽器自体がもつ柔らかなニュアンス(銅を使用することによる特性と言われている。yanagisawaでも銅を管体にもつシリーズがあり、以前ソプラノはそれを使っていた)を五十嵐さんはよく引き出していて、中音域の音の美しさは目を見張るものがあった。また品田さんのドイツ時代の話や、前年の奏者の広瀬さんは旧知の仲らしいことなど話してくれ、ふと楽屋の時計を見ると3時前。
「ああ、そう言えばだいしホールってバス停どこで降りたら良いですか?」
「あ、本町で降りれば。そこからだいし銀行があって、、、」
「今日はこれから石井さん見に行くんです」
3時過ぎにだいしホールに向かった。教えられたとおり本町でバスを降り、だいし銀行を探す。このあたりはいつもタクシーか、または福島さんの車で通り過ぎるからなんとなく風景は見知ってはいるもののそれは単なる流れゆく風景でしかなく、地に立ってみてもまったく覚束ない。冷たい雨はひときわ激しく、道路越しに向かいの建築物に目をこらして見てもそれらしき文字は見当たらない。万代橋方面に引き返すが、違うようだ。もときた道を引き返し、適当に歩く。道路をわたり、3時半過ぎ。開演は4時なので人に尋ねようかと思ったころ黒い壁にひっそりと「第四」の文字が見えた。「だいしって第四、、、」。そのビルの正面手前の道を折れ、ホール入り口に着いた。「経麻朗・石井朋子デュオコンサート」階段を昇り受付で名前を告げホールに入ると重厚な構造をもった空間が開けた。どことなく優雅にも思える。最後列中央の右端に席をとり開演を待った。舞台上にはピアノとギター。モニタースピーカー、アンプが佇んでいる。例えば「これが作品です」。と演奏されない楽器を鑑賞する作品だとしても納得するような。奏者は誰でも楽器にある種のフェティッシュを感じるが、この世に存在するオブジェクトのなかでもひときわその造形に蠱惑的な美を見いだす。開演前の幾分暗めに設定されたライティングは静謐であきらかに外界より重い空界を形成していて、楽器はそのなかで息をひそめて停止している。セリーの響き。ババジャニアン「6つの描写」石井さんが選んだプログラム唯一のピアノ・ソロ曲であり現代音楽作品。この日のコンサートの主題はピアソラで、つまり官能のタンゴ・ノワール。そのなかでこの作品を聴衆に(クラシック奏者として)提示することの意味を聴衆の一人としてその示唆を考えながらも、低音のソリッドな連結、移動する音列のブロック、濃密で素早いパッセージが目紛しく運動し、複雑に干渉、炸裂する音の飛沫はある描写では極めて硬質な響きを湛え穿たれる。またある描写では対称的に内省的な旋律に沈む。臨界を迎えた音列の集合体から不意に現れた最高音域でのパッセージがやけに鮮やかに浮かび上がり、、、fine。「アルノ・ババジャニアン(1921〜1983)アルメニア。作曲家でありピアニスト。その独自の作風はアルメニア民族音楽の精神と西洋音楽における伝統的な作曲技法の美しい結合として表れ、、、プログラムノート。後にこの作曲家のことを調べた。様々な様式の作品を残していることを知る。個人的にはピアノ曲poemの発見は大きかった。演奏会に足を運ぶひとつの楽しみは発見であり、閉じていた眼を開かれることにも繋がる。選ばれた機会にさえ恵まれれさえすれば」。石井さんの生の演奏を聴いたのは昨年の「変容の対象」2011年度版全12組曲初演と2度目になる。「変容の対象」場合は自身の作品なので1音たりとも聞き逃すことなどあり得ない性質のものであるから言うなれば完全に自分の頭の中の制御下にある音の情報を聴くのと初聴の曲とでは琴線に触れる閾、情感に触れる閾は自身の意図することなく突然訪れる類いのものであるから一概に同列に並べて判断する対象にはならないというのがほんとうのところだと思う。後述の場合閾を喰い破られたのを知るのはそれが破られた瞬間初めて気付く。あのように演奏することが可能な人の心理とはどんなものだろう、、、と思わずにはいられないような演奏だった。奇跡とは傍観者がそれを目の当りにすることで初めて知るが奇跡を起こす方はほぼそれを事前に知っている。ある制御不可能な領域(それは傍観者の目には永遠に未出である)の存在を除いて。そんな「6つの描写」だった。第1部の演奏が終わり、時間は17時を少し過ぎたところ。休憩を機に初めてパンフレットを開き、かの作品がババジャニアン「6つの描写」ということを知り、第2部のプログラムを見るが、「越の風」の開場が18時であるので、もう少し聴いていたかったが演奏途中で扉を開くのも嫌だったし会場を後にすることにした。ゲネを聴き、石井さんの演奏を聴き、これからスペースYにもどり「変容の対象」を聴き、また他の作曲家の作品を聴く。疲れは無いが昨日からの雪から雨に変わった新潟の夕刻は夕刻にしては重い時間を付帯して流れているようにも思え、再度バスに乗り万代橋から見る川の濁った様相も、雨にけぶられた路面の店先のぼんやりとした光彩もそれに加担して自身の脳裏を通り過ぎて行った。会場に着き、楽屋に入り冷えた指先をコーヒーで暖める。紙コップに入れたインスタントコーヒー。ピアニストの品田さんは本番に備え着替えを始めている。「僕、去年の変容の対象も聴いているんです。この会場に居ました。」と品田さん。


《変容の対象》2012年版より
"1月"
"6月【静寂を呼ぶ】"
"7月【男が夢想する夢のような女性像と天使は男だけしかいないという概念の響和音】"
"9月【数式のエレジー】"
"10月【丸に3つ】"
"11月【裂かれた片方ともう片方を繋ぐ術など最早無い】"
"12月【《無題2-2》相転移】+(12×12の行列)"


1月は自分の書く対象楽器を2009年から2011年までのソプラノサックスからアルトサックスに変更して書かれた。福島さんによると我々の書式を勘違いしている人も多いという。例えば福島・濱地どちらもサックスパート、ピアノパートを書いているとか、動機からfineまでまず一方が書いて、それに基づいてまた一方が書くといったような、まるで伴奏に主旋律をあててゆくような書式を想像する人も居るという。変容の対象は互いに担当楽器が決まっていて、福島さんはピアノ。僕はサックスと固定されている。福島さんはサックスの音を1音たりとも書く事はなく、またその音について意見や変更を要請することはない。僕はピアノの音を1音も書かないし、またピアノの音、組織について意見や変更を福島さんに要請し、楽曲のある部分を自分の都合、または自分の想定する楽想に当てはめようとか、整えようとかはしないし、出来ないようになっている。つまりサックスとピアノは書かれる1小節単位(それは4分の1から例えば4分の26拍子、もっと長いものまである、、、といった長大なものまであり、月の最初だけは動機を担当する一方が1小節まずその月の作品の動機を提示し、それ以降は交互に2小節ずつ書き進められる)で書かれ、相手が空白の五線紙に音符を書き終えて初めて相互に干渉しアンサンブルを形成するが、その前段階では完全に独自の思考形態を形成し、自立して形成される。我々の間では5年かけてゆっくりとそれらの行為を実践しながら構築してきた様々な書式、ルールが出来ていて、それらに基づき書き進めてきた。そしてそれらは常に更新の対象にある。目の前にサックス、ピアノの音符がそれぞれ上段、下段に書かれている。ある人にとっては、それはあるいはごく普通の譜面に見えるかもしれない。しかし上段のサックス譜はある者が書き、下段のピアノ譜はまたある別の者が書き、さらにそれらは1小節ずつ交互に書かれていて、上段、下段の五線紙は交差しながら作品を形成してゆく。それら交互に編まれたものは完全に独立して書かれ、書かれる時には上段、あるいは下段の干渉を受け入れて書かれることもあれば、その干渉を一切、あるいは部分的に拒絶して書かれることもある。それは音符ではなくもしも言葉であるなら独白にも似た態度で書かれ、上段、下段の関係は常に独立し、2つの脳の動きが書き込まれている。細部では、、、時間にするとほんの短い単位で音の主従は入れ替わり、走る。1月は五十嵐さん、品田さんは特に苦心されたようだ。

6月。2012年2月より、楽譜1ページ目に冒頭文が書かれるルールが追加された。その冒頭分により作品にどういった影響があるのか、ないのか、、、も含め福島さんから提案され導入された。それに基づいて6月は1小節目の動機を提示する福島さんの文【静寂を呼ぶ】が書かれて始まった。変容の対象は楽譜にアーティキュレーション、その他の指示がその作品の成り立ち故書かれることが稀で、サックスの五十嵐さんには奏者の審美眼によってそれを決定し、奏法に関しても例えば(大袈裟に言えばと但し書きをした上で)奏者がその部分でスラップタンギングフラッタータンギングを使いたければ使っても良いです。といったような説明を事前にしていた。そういった経過もあり、この作品ではスラップタンギングを使用する箇所(つまり奏者である五十嵐さんがその奏法を選んで演奏したということだ)もあって、それは楽譜に指示はされていないけれど、面白く聴いた。変容の対象は奏者に委ねる領域も大きい。それによって「変容」すれば良いという考えもある。

7月。【男が夢想する夢のような女性像と天使は男だけしかいないという概念の響和音】冒頭文は僕によるものだ。2、3小節目の16分音符の連続体は前述にもあったように五十嵐さんの中音域の美しい音が発揮されたように聴いた。品田さんも安定感をもって演奏されていた。

9月。【数式のエレジー】冒頭文はこれも僕によるもの。ピアノの品田さんは福島さんから聞いたところによると数式と、エレジーという概念としては相反するイメージの言葉に少し戸惑われたようなことを聞いたが、そういった戸惑いも内包して演奏していただければ作曲者としては喜ばしい、、、と言ったらしかられそうだけれど、言語も組み合わせによっては読むものにとってはあたらしい心象を誘発する。それが不安定なものであったとしても、良いと思う。決定され、安定した状態の心象でなくても良いはずだ。価値は揺さぶられ、楽譜に対する解釈もそれに影響されて、奏者からどういったものが出てくるのか。品田さんのピアノは数学的な構造をもった作品と相性が良いのではないだろうか。ソリッドで端正なピアノを弾くピアニストだ。

10月。【丸に3つ】冒頭文は福島さんによるもの。丸に3つとは、、、当時提示された文字を見てもどういったものなのかまったくわからなかった。記憶によれば暫く書き進めてから福島さんから説明を受けたように思う。家紋の紋様のひとつだそうだ。それで、ピアノの譜面を読むと福島さんは執拗に3つの単位で思考していることがわかる。もし、会場でピアノの音により注意して耳を澄ませて聴いていればそれがより輪郭をもって浮かび上がってきたはずだ。


11月。【裂かれた片方ともう片方を繋ぐ術など最早無い】冒頭文は僕によるもの。1小節目から3小節目に至る16分音符の連続体は僕にとっては特別な何かを留めているように思う。また5小節目はゲネの際に奏者の方々と対話した成果が表れていてそのポイントの一瞬が際立って美しかった。テンポを落とし、シーンが変わるその一瞬ぴったりと合わさったサックスとピアノのその刹那。

12月。【《無題2-2》相転移】+(12×12の行列) 冒頭文は福島さんによるもの。これの解釈も品田さんは福島さんに質問されたようだ。僕は当時、意味ははっきりとは判読できなくても福島さんらしい提示なので
そのイメージ(こちらの勝手な)と実際の行列(数字がずらっと並んでいる)を少し横目で見ながらサックスの音符を書いていたように思う。fineに至る10〜11小節目の様相が印象的だった。

サックスの五十嵐文さん、ピアノの品田真彦さんは本番が最も良かった。感謝したい。


また今年の「越の風」の他の作曲家の方々の作品はお世辞抜きでそれぞれ際立った印象をもって聴いた。小西奈雅子先生の作品「雪」は良寛の和歌をとった唄の作品で、僕が言うのはほんとうにおこがましいけれど優れて映像的な作品であり、箏と唄の武藤さんの唄がそれを表出することが可能な極めて映像的な唄い手であり、その映像が真に迫ってきて驚いたのだった。終演後、感激したのを武藤祥圃さんにも伝えた。自分はめったにこういうことをしない。遠藤雅夫先生の「線の転写」はヴァイオリンとピアノの作品で、互いの旋律を提示、模倣する構造なのだがその模倣がカノン、フーガのようにそのまま模倣されるのではなく、変形されて出てくる。スタイリッシュな知的交感が為されているような音の応酬が「書かれて」いた。ピアノは遠藤先生が自演された。佐々木友子さんの演奏も素晴らしかった。遠藤先生にも直接伝える事ができた。感じたことに比べれば少しだけだったけれど。また、出演された奏者の方々も皆さん素晴らしい演奏家であり、チェロの渋谷陽子さんは去年も聴いたし、トリオ・ベルガルモの「ラフマニノフピアノ三重奏曲」のCDで良く聴いていてその圧倒的な演奏技術と音の良さ(これはほんとうに凄い。優れた音響技術という言葉があるとは思えないが、そういう高度な領域だと思う。)はCDをある値以上で聴くと非常に良くわかる。爆音一歩手前あたりの、ほぼ実音値あたり。本番でも当然のように素晴らしかった。フルートの市橋靖子さんの音も柔らかく、奇麗な音。小黒亜紀さんのピアノもエレガントで良かったし、ソプラノの北住順子さんは高度な技術を必要とする歌曲を丁寧に表出されていた。鈴木賢太さんは福島さんの先生で、ピアノ奏者としてその場におられた。繊細なピアノを弾かれる姿が印象的だった。ヴァイオリンの廣川抄子さんは去年の越の風でも渋谷さん、佐々木さんともども拝見したが、今回は2作品の三重奏曲でその存在感ある演奏を聴けた。新潟には画廊fullmoonという僕もお世話になっている画廊があり、そのKaede Gallery+fullmoonでは渋谷さん、佐々木さん、廣川さん、今年は出演されてなかったがベルガルモの庄司愛さんなどの室内楽が定期的に公演されていると知る。素晴らしいことだと思う。新潟の人々はとても恵まれていると思う。その地では自然に享受されていることが、地を異にすればそれは特別なことであるというのは外に居るものほど際立って知覚できるものだ。美術館キュレーターの桐原さん、高橋夫妻、越野泉さん親子、福島さんのご両親、笠原円秀さん夫妻も会場に足を運んでいただけた。明日は福島さんとのスタジオ録音があり、今回は打ち上げには参加せず、福島さんのお父さんと、円秀さん夫妻とともに軽く食事をしてホテルに帰った。滋賀の福島さんにメール「変容の対象2012年度版初演無事終わりました」

12月1日。ホテルから窓の外を確認すると、前2日間の悪天候は少しゆるみ、雨の名残りが道路に残っている。朝食をすませ、チェックアウトをし、福島さんからの連絡を待つ。少し時間があるので本屋により2冊ほど購入。福島さんから一応予定どおりとメールをもらっていたが、その後新幹線に財布を忘れてその対応に追われていると電話があった。財布は見つかり、預かってもらっているとのこと。安堵したが、時間は少し遅れそうだ。スタジオをおさえている時間は録音予定の作品の数からすればぎりぎりの時間しか確保できなかったので、どうやら想定していたもの全てはやれないだろう。待ち合わせは1時間ほど遅れて新潟駅で再会を喜んだ。今年の3月の東京以来だ。福島さんの運転する車の車中で昨日の変容の初演のことなどを報告した。飛くんの結婚式のことも話題にのぼる。何の気無しに語られる話題は音楽に於ける態度の表明の我々なりの交感でもある。スタジオに到着し、そのリッチな空間に少し驚いた。新しい建物は新潟の中心地からは離れているせいか、まだ利用者はそれほど多くないらしいが、それも時間の問題だろう。時間をかけて訪れる価値は充分にあるスタジオだった。サックスのセッティングを済ませ、まずは福島さんの作品「双晶1」(仮題)を。今年、僕が委嘱し、書いてもらったサクソフォン・ソロ作品。サックスを吹く奏者ならこの音域の連続体がどういった練度をもって吹かなければならないかが一目で分かる言うなればフラジオ連続体が大きくわけて4つ存在している。練度と言ったがそれはある意味ではまったく別の演奏法の文脈を書き加える作業に近い。ほぼフラジオ音域だけの16分音符を中心とした旋律組織がある一定以上の時間を埋め尽くしまとまって現れる作品がこの世にどれだけあるのか正確に知っているわけでは当然ないが、それほど多いとは到底思えないし、またそんな演奏体験は出会うにしても稀だと思う。フラジオは僕もよく使う奏法であるにしても、これだけの連続体は経験がない。つまり、これまで培って来た運指の経験則とはまったく別の運指を構築しなければならない、、、という意味で文脈を書き加えるというのに近いという実感をもってこれまで練習を続けてきたが、指示されたテンポで演奏するにはまだ練度が足りない状態で、それでもその近似値まではある一定の演奏を可能にした段階で臨み、また自分の解釈でそのフラジオ連続体のテンポを揺らす演奏も福島さんに実際聴いてもらい意見を聞けたらと思っていた。結果からいうと、録音はしたものの、不完全なものに終わった。唯一、僕の解釈を福島さんも気に入ってくれたことが救いではあった。時間も逆算すると厳しいので、次の作品に移った。我々の間では「オフィーリア」と単に呼んでいる作品で、正式には「分断する旋律のむこうにうかぶオフィーリアの肖像。その死に顔」という。これはまだ最終段階ではなく、それの前段階を録音するに留めた。次に「contempt for alto saxophne and computer」これはソプラノサックスのver.もあり、作品にもなっている。今回は次のステップの為の準備として録音した。この作品は僕と福島さんのサックスとコンピュータの室内楽シリーズの初期の作品であるが、僕サイドの作品としては雛形の様相もある作品で、即興的アプローチが連鎖する二人の奏者の心的な動きの激しい作品でもあり、リアルタイム・プロセッシングが露に表出する作品でもある。こういった演奏体験は福島さんも言っていたが久しぶりだったので、ある時間の経過を思わないでもなかったけれど、演奏中盤からは輪郭のはっきりとした応酬は時間を超えて甦ってもきたし、また新たな側面の表出もそこにあった。特にfineに向かう終止から主題が現れる瞬間は鮮明に記憶に残っている。ここで、約束していた高橋悠、香苗夫妻が到着し、最後の作品をお二人に見てもらいながら録音した。ご夫妻とは福島さんの結婚式に僕が金髪をディップで7・3の横分けで固め、黒ぶちのウェリントン型の眼鏡姿と洒落込みカポーティーを意識して参列したのをブログに書き、悠氏がtwitterでそれ見てカポーティを読んだと書いてくれていたのを福島さんが教えてくれ、それを機会に親しくさせてもらっている。聞けば我々の最初期の演奏も聴きにきてくれていたらしく、縁というのも不思議なものだ。お二人はプロダクト・デザイナーであり、美術家でもある。最後の作品は4つのシート、、、楽譜、あるいは単に透明なシートがあると想定してもらってよい、、、を最終的に様々なパターンで重ねてさらにそこにプロセッシングが加わる想定の作品で、「srapstream」と題しているもの。各シートは3分12秒で録音された。1つめのシートは全編スラップタンギングの演奏で、これは題名にもかかわっている。2枚目のシートは奏法としてはトリルを中心とした演奏で、右手を移動させトリルを複雑化させる奏法や、サーキューラー・ブリージング(循環呼吸奏法)も導入している。3つめはマルチフォニックスの奏法を中心に組まれた組織。4つめは引用で、2013年11月の「変容の対象」作品のサクソフォン組織の一部を音価を変えて演奏した。この11月の作品は「for T」と冒頭文に福島さんが書いて、結婚する飛くんに捧げられている。スラップストリームとは勿論造語で、SF用語のスリップストリームカート・ヴォネガットスラップスティックも参照している。単なる言語としてのレベルだけれど。スタジオを後にし、4人で新潟駅に向かう。「最近思うんですけど、、、僕、本ばっかり読んでるでしょ。気付いたんですけど、これって碌な人生ではないんですよ。何故、自分がこうも物語に耽溺するのか、また、しなければならないのか。こういうのを必要としない生き方ってあるでしょ。現実の人とのかかわり合いが豊かであればこうまで耽溺はしない。若い頃はそれこそ、そういう文学や、哲学で読み知ったことを特権というか、特別なことと勘違いしてなんなら他人を見下したりしちゃう。それって大きな間違いなんですが、それをほんとうだと勘違いしちゃう。それに、もう、僕、おっさんなんで、もうなんもかんも面倒なんですね。ほんとしんどい。駄目ですよね。まったく」「そんなことないでしょう」「いやいや、あるんです。気付いた時には既に遅し」新潟駅。これから烏賊の墨というお店で福島さんが声をかけて打ち上げというか、会を催すことになっている。昨日に引き続き円秀さんご夫妻、高橋夫妻、そして後からピアニストの石井朋子さんも合流される。会はなごやかに進み、石井さんも加わり昨日の石井さんの演奏についての質問などもし、また「変容の対象」や、福島さんの譜面、譜面というメディアについて私感を述べたり、円秀さんからの現代音楽の見え方なんかも聞きながら、我々の尺度や見え方とは違う見え方なども参考になりつつ、石井さんの鮮やかな論考に頷きながら、福島さんは始終にこやかだった。


12月2日。ホテルをチェックアウトし、福島さんと待ち合わせまでの時間。また本屋に寄る。2冊購入。エドガー・アラン・ポーなど。ハヤカワ文庫SFフェア2013のコーナーがあり、暫し立ち読み。サイバーパンク以降のSFはどうなっているのか、ポストサイバーパンクというのは聞いたことは雑誌「ユリイカ」で特集があったが、、、もう何年前だ?東京に住んでいたころだから、随分前だが、それから聞いたことはない。単に知らないだけなのか。など思いながら新しい作家の本を知る機会になった。ここから読むとなるとなかなかの障害があるが、「バレエ・メカニック」は題名が題名なので買った。わかる人にはわかる。福島さんは今日は奥さんとお嬢ちゃんを連れて空港まで送ってくれる。お嬢ちゃんといってもまだ赤ちゃん。空港のロビーで自由に遊ぶのを見ながら「君は自由やな、、、おっちゃんらはな、自由を心の底から標榜して探しに探したんやけど、結局それを見つけることができんと死んでゆくんや、、、」福島さんと目が合い、奥さんは苦笑している。

大阪に着き、、、


天王寺から故郷に帰る電車の車中。様々な事象イメージが輪郭をもつことなく脳の内部を急速に流れる。「変容の対象」2012年度版初演に際して新潟の地を訪れた際の現実の映像がカットアップのようにフィードバックを起こすが、それらが輪郭をもたずに、このように現れるのは何故なのか、、、普段は、またこれまではこういったことはなかったはずだ。それらは常に輪郭をもっていた。単に疲れているだけなのか、また別の要因によるものなのか、、、夜。車窓から見える外部は延々闇の連続体が走る。








12月4日。「変容の対象」2013年度版11月までの11曲を確認する。新潟での福島さんの言葉から。「2012年度版初演の後に一度2013年の作品も聴きなおしたんです」
過去の変容の音形を引用している箇所と、意識せずそれが形成されている箇所。結果的に引用めいた様相をもつ箇所に視線がいく。また今までには表出されていなかった楽想も。12月、今年最後の作品を書く前にこうして他の11作品を通して俯瞰することにある種の思惑も見つける事ができただろうか。今はまだ1音も書いていないし、またそれはかたちの前の点にすらなっていない。