hamaji junichi

composer saxophonist

夏の祭りで疲弊し切って今日は断続的に寝ていた。毎年夏になるとこれがやってくる。古の街人はこの祭りに絶対の神性と、享楽、あるいは愉悦を感じ、血がたぎる。そんな夏の祭典だったろうが、今は苦痛のみの行事でしかない。少なくとも自分の場合は。祭りを観る人たちは観るだけで楽しいばかりかもしれないが、氏子として祭りをする方は夏の灼熱の日差しと延々と続く各街の神社への奉納をまるまる2日続けるのだからたまったものではない。朝早くに自分の街を出、夜中に帰ってくる。まるで阿呆だ。正気の沙汰ではない。ちんたらちんたら山車を20人ばかりが引き、当番である自分らは裃(かみしも)を着て歩いてお供する。祭りは本番だけではなく、その2週間前から始まっている。山車の組み立てから様々な準備をする。そういう日々を経てはれて祭典が始まる。

夜。神社の敷地には多くの人々が祭りを楽しみにごった返す。自分はそれを見て、なにやら言いようのない不浄な印象を持つ。人それぞれは楽しむ為、それは勝手だが、それらが集まって群衆になるとたちまち下衆で不浄な嫌な匂いを放つ。そんなところに自分は居たくないと思えば普段ならその場を離れてしまえば良い。それも勝手だ。しかしながら氏子はそうはいかない。勝手は赦されない。果たして、自分はそういう生き方をたとえ夏のたった2週間ほどでもやるために生きてきたか。大袈裟か。そのような大衆の嫌な匂いを嫌悪してきたからこそ、、、と思う。

すんでしまったから忘れてしまう。最早、そういう場合でも無いようにも思うのだが夏は毎年やってくる。


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数時間寝て、カフカの「アメリカ」を再読し終えたから翻訳ものに疲れて堀辰雄の「風立ちぬ」を途中からまた読み始めた。三島ぐらいまでだろうか、作中の女性のほんとうに奇麗な会話の言葉を読んでいると、それだけでこの身を捧げても良いと思ってしまうが、感傷に過ぎないのはわかっていながら、やっぱり美しいと思う。寝ようと思うが疲れているのに眠れない。それでfenderのjazz masterに弦を張る。ピックアップはEMGに載せ変えているからまずはピックガードを外し、新たに買った電池ボックスに付け替えたものに9Vの電池を接続し閉じた。エレキギターの弦を張るなんて何十年ぶりだろう。おそらく20年近くになるのではないだろうか。弦を張ってみてブリッジが低すぎることがわかった。いったい当時の自分は何を思って弦高をこんなに低くセッティングしていたのだろうか?これじゃあ弦の振動を効果的に伝えきれないじゃないか。阿呆じゃないかと、思った。アンプに接続し、EMGの音を久しぶりに聴く。ジャック部、コントロールノブのガリが気になるが、経年放置の後遺症なのでしばらく様子を見る。通電していれば解消することもままあるからこれで暫くギターに触れていこうと思う。福島さん、飛くんとのプロダクションがなければギターをこう早急に部品やなんやかんやとそろえなおすということもなかったろうが、流れというのはあるからそれに従ってみたい。クラシックギターはたまに手にしていたけれどエレキは本当に久しぶりで、まずはそれに慣れないといけない。その昔幼い頃クラシックギターを習いはじめてあっと言う間に教わるのを止めてしまったことなど思い出される。ところで、今 バッハのギター曲(リュート曲)をyou tubeで流しながらこれを書いているのだが、途中で強引に挿入されるコマーシャルのクソさかげんに頭にくること屢々。舌打ちが止まらない。祭りで街を歩いていて、タレントの顔がでかでかと写された商品の広告を見る度に広告など無くなってしまえば良いのにと思ったものだが酷いものだ。ほんとうに。


「我々は広告によって生かされている」


そんな誇大妄想的ポストポストポストモダン小説があってもおかしくない。


祭りの合間。同街の人とはどうでも良いことは話せないので一人で居たいから父の本棚から北方謙三の本を借りて合間合間の休憩の時間読んだ。「碑銘」。ハードボイルドと言えばチャンドラーが真っ先に想起されるが、日本のハードボイルドも面白いものが多いのだろう。この本もやたら面白かった。大藪春彦を高校時代好きで読んでいたことを思い出しもした。たまにはこういうのも読むと良いと思った。実際、オースターとかはそういう要素で読ませて別の領域に読者を連れて行く。なにが純文学かは最早意味をなさない。カテゴリーとしての機能はあるにしても。

チャンドラーの「ロング・グッドバイパトレイバーの実写版でなにげに登場していた。パトレイバー実写版6章?あたりから面白くなってきたかもしれない。