hamaji junichi

composer saxophonist

新潟 masterpiece

11月24日、夕刻に新潟に着く。新潟に着いたらまず足を運ぶのはJR新潟駅の下にあるbookoffで100円の小説文庫本を見る。これは毎回。

ジッド「狭き門」「田園交響楽
エルモア・レナード「ラムパンチ」
パオロ・バチガルビ「ねじまき少女」上
そしてテッド・チャンあなたの人生の物語

どうよこれ。見る人が見ればたまらんわなこれは。しかも100円!即買い。




福島諭さんに到着した旨メールし、では明日。となった。



ところで新潟は美しい女性が多い。何気なく美人が通り過ぎる。本当に何気なく。





25日。
昼間。福島さんとタリーズ・コーヒーに行き26日の発表の新作の打ち合わせをした。題名は《respice finem》(レスピケ・フィネム)数年前の福島さんとのイベントの題名からもってきた。福島さんが数学書から見つけたという言葉。概念。

そういえばタリーズ・コーヒーの店員さんも可愛い女性が多かった。なんなんだ新潟。

夕刻福島さんは会場に。自分は少し仮眠を取るためホテルに戻り「越の風」の時間まで過ごした。

ここ数年は福島さんとの共同作曲作品《変容の対象》をあげていた「越の風」。現代音楽の作曲家の演奏会である。今年はオファー時に自分の側に不確定な別件の問題があり、この時期どうなっているか予想できないので相談して変容はあげないことになった。今回は福島さんの文化庁メディア芸術祭受賞作品の「patrinia yellow」が広瀬寿美さんのクラリネットで演奏されることになったと後に聞いた。あの場でpatriniaが演奏される。素晴らしいことだと思った。

会場に着き、各作曲家の作品を聴いた。奏者にはピアニストの石井朋子さん、前述のクラの広瀬寿美さん、ピアニストの若杉百合恵さん(彼女たちは年度別の変容の対象の初演奏者であり、それは親しみを感じる人たちだ)の演奏する姿を見ることができ良かった。ピアニストの品田真彦さんも(彼も変容を演奏していただいた方の一人だ)客席におられ、少し話せた。

広瀬さんの《patrinia yellow》を初めて聴いた。鈴木生子さんのpatriniaとは全く違うpatrinia。奏者が違えば作品は様相を変える。

終演し、自分は故あって早々に会場を後にした。石井さんや若杉さんに直接挨拶出来ず残念に思いながら。


26日。

G.F.G.Sという新潟発信のボーダーTシャツのブランドが音楽レーベルを立ち上げ、その第1弾アーティストが福島諭さんということで、「福島諭:室内楽2011−2015」がリリース。その関連イヴェントがあり、新潟に呼ばれた。今回自分が演奏するのは濱地・福島(福島・濱地)のサックスとコンピュータのための室内楽シリーズにカテゴライズされる新作《respice finem》(レスピケ・フィネム)、2013年に自分が福島さんに委嘱したサクソフォン・ソロ《双晶I》の2作品。

ここで個人的な独白をすると、近年の自身の演奏という行為に関しては微かではあるけれど、少しばかりうんざりしていて、はっきりとは言語化できない懐疑というか、もっとくだけて言えば「こんなことで良いのであろうか、、、」というような感触しか持てない発表がいくつかあり(全ての発表でそうだということではないが)、今回の新潟でその微かな懐疑がまた訪れるかどうか、訪れないようにする(そうしないわけにはいかないと思っていた)にはどうしたら良いのか、ということをこのひと月ほど準備しながら考えた末の発表であり、例えば今月、津上研太さん南博さんのカルテットとshit inで津上さんの作品を演奏した時の自身のあの「音楽が死んでいる」演奏(断るまでもないことだが、津上さん南さんの演奏は神がかっていて完全だったことは言うまでもない。自分の演奏だけが死んでいたということだ)は、とりわけそう言った演奏行為における微かな思いをある種切実に自身に意識化させ突きつけられたわけで、今回まかり間違って福島さんとの発表で「音楽が死んでしまっている」演奏しかできなかったとしたら、、、と考えていたのだった。

開演

まずはpalさんという新潟在住の、福島さんが気になっているアーティストが登壇。以前はコンピュータを使った作品の発表をしていたそうだが、最近はサンプラーなどのハードウェアのみ使用して作品を発表していると聞いた。(彼は福島さんのアルバムの別projectionでremix作品の制作があって、僕も参加している関係で、そこでまず音源だけは聴いていた。それはまだ世に出ていないがいつか出るはずだ)個人的には福島さんのアルバム収録の作品《bundle impactor》のremixのlive演奏が良かった。「remixをlive演奏する」という行為がどれだけ行われているかは知らないが、少なくとも現代音楽の作曲家が作曲した作品を、その作曲家がいる場でその作品を「リアルタイムでremixする」という行為は十分刺激的だったし、その行為が付帯する概念はcool以外の何物でもない。

coolといえば今回のお客さんはG.F.G.Sのイヴェントの故か(間違いなくそうなんだけれど)お洒落な女の子たち(もちろん男性も)がたくさんいて、現代音楽の発表の場で「マジかよ、すげー」と思った。cool、あるいはhipと言っても良い会場の雰囲気はひとえにそのような聴衆の持つアウラがそこに機能していたし、そういえばお洒落な若い人たち、ファッションに興味があり楽しむような精神性は、アートにも魅かれるだろうし、文学にも魅かれる。音楽、ことに現代音楽はそれら比較的触れやすいアートと比較して格段に難解だろうし、それはエンターテインメントの領域の音楽だけ聴いていたのではほとんど絶望的に知覚することすら不可能であるのは自明の事実ではあるけれど、唯一それらの軛をこじ開けるのは「目の前で演奏される」ということの強度とヴィジョンである、、、と。実際に足を運んでこの場にいるという現象。同時空間上で直接影響されるという現象は身体に否応なく反応を起こさせる。それが良いものである保証はないけれど、しかしながら楽器の生の音というのは強力な反応を起こさせることは音楽家なら誰でも知っているし、音が直接身体に「触れてくる」体験は誰もそれを防ぎようがないほど強い。

《respice finem》(’16)

福島さんは当日の昼過ぎまでこの初演にかけるためにmax/mspで作業をされていたらしい。実際にこの作品を着想し始めたのは2016年の初めあたりかその少し前で、まずは音列の組織の作曲を始め、fixした順に福島さんに送るという作業をし、音列が全て出揃ったのが今メールのやり取りを確認したら8月30日。そこから何度かこの作品を形成する概念の説明などを経て、実際にそれら音列を使用した演奏の録音を福島さんに送り確認してもらい、昨日のタリーズ・コーヒーでの最終意見交換。で、今日ということになる。ほとんど綱渡り的な作曲の進行具合だが、間に合ったばかりか、そのコンピュータ・パートに織り込んだシステムに流石だと思った。

ソプラノ・サクソフォンは全て循環呼吸で演奏される。4つの行き来する2つの音列と、3つの定形フレーズが用意されてあり、それらは奏者が任意で組み替え演奏される。そのブロックが合計4つ。そのブロックの間に先に演奏されたサクソフォンの演奏をリアルタイムで録音したものをプロセッシングするコンピュータセクションのブロックが3つ。ブロック4は先行するサクソフォンに重なるようにコンピュータセクションが介入し、fineに向かう。

saxophone1-computer1-saxophone2-computer2-saxophone3-computer3-saxophone4+
computer4-fine part

作品上の一つの大きな概念は「書き換え」であり、saxophoneはそれぞれ同じ音列情報とフレーズをブロックごとに書き換えしてゆく。スコアに提示されている情報は同じであるが、ブロックごとに演奏される音情報はそれぞれ違うものになるように演奏される。さらにコンピュータもその概念を踏襲している。

もう一つの概念。循環呼吸奏法の採用は、人性の超克を、、、(以下omit)



おそらくこの作品は我々のマスターピースになる。そんな予感を色濃く残した発表となった。



《筒風》for shakuhachi and computer(’16)

福島麗秋さんの尺八とコンピュータの室内楽作品。アルバム収録のbranch of A(’15)とは別の作品ですがその延長線上に位置する作品であるように聴きました。

《patrinia yellow》(’13)

文化庁メディア芸術祭「アート部門」優秀賞受賞のこの作品は展示では別の手法がとられています。オリジナルがこの実際の奏者が演奏するもので昨日(25日)の「越の風」でも広瀬寿美さんのクラリネットで演奏されました。コンピュータ・オペレーションは福島さん。会場の違いもありますが昨日とは違う音響で演奏され、音の分離と像は今日の方がクリアに聴こえたように思えます。2ndセクションではクラの発音がトリガーになり、コンピュータ再生音が出力されます。その変化は演奏ごとに違い、それはリアルタイム・プロセッシングであること、また奏者の違いなど様々なエレメントによって様相を異にします。生きているわけです。つまり。その時々に。


《双晶I》(’13)

この作品は厳密に組織の構成の意図を表白しなければならない。という点で非常に難易度の高いものです。テンポの維持もさることながらその組織の像を可能な限りクリアに像を結ばなければならない。練習は毎回ハードディスク・レコーダーで録音しながらその細部を追ってゆくような練習方式をとりました。これは発見が多かったです。13年に僕と福島さんで2009年から行っている《変容の対象》という共同作曲作品を書いている中で、このあたりで福島さんにサクソフォン・ソロ曲を書いてもらっておいたほうが良いのではと不意に思い立ち自分が委嘱しました。今回の演奏はベストではありませんでしたが、作曲家本人から「音楽が死んでいなかったので良かったんです」と言ってもらえたので次回の課題としてこの初演を記憶しておきたいと思っています。アルゴリズミック・コンポジションで書かれたサクソフォン・ソロ曲。世界でもそうあるものではありません。


《an_Overture_for_the_still_unknown_band》(小柳雄一郎G.F.G.Sー 福島諭)

前述のremix制作時に音源は聴いていて、「架空のサイバーパンクサウンドトラックみたいだ、、、」と思った記憶があります。エレクトリック・ギターのfuzz(overdrivedistortionでも良いのですが)を通したコードの感じと、プロセッシングが溶け合う様相はpostサイバーパンク的popであり、どこかに微かなdystopia感と、同時にutopia感も感じられます。アンビヴァレント。少なくとも僕はそう聴きました。唯一現代音楽の文脈ではない曲であるんですが、そこは福島さん、何かひっかるものを潜ませています。


会場には美術家の吉原悠博さんがいらして久しぶりに少しお話できました。吉原さんはいつも親しみを込めて接してくださいます。experimental roomの星野さんは僕の昔のCDを持ってきてくれてたりして嬉しく思いました。

美術家・プロダクトデザイナーの高橋悠、香苗さん夫妻には終演後、世迷い言を喋りちらして失礼したかもしれないが、親しみを込めてということで。悠くん、香苗さんは福島さんの《patrinia yellow》の展示のスピーカーデザインや、先に新潟で行われた文化庁メディア芸術祭新潟展の招待作家として、またプロダクトデザインで最近賞を取られたとのことでお祝いを直接言えてよかった。




打ち上げは小柳さん、palくん、広瀬さん、福島さんと僕で。有意義な打ち上げだった。打ち上げは基本苦手なのだが楽しいだけという稀有なもので、個人的には小柳さんの着ていたTシャツがかっこよすぎて着なくなったらまじ欲しいと思った。


帰り、福島さんの車の車中で少し話す。自分の最近の演奏行為に対する懐疑が溶けて「救われた」発表だったことを伝えた。