hamaji junichi

composer saxophonist

in memory of...

in memory of...
墓碑銘に刻まれる文字

昨日九十九の古久保君からメール。丹橋勇治さんが亡くなったと。
丹橋(タンバシ)さんはジャズベーシスト。
僕が演奏活動を再開する前(長い沈黙の時期でした)に数回ドラマーの本田憲治さん(地元で技術は勿論、もっとも演奏する姿勢に共感出来る稀有な方だ。唯一と言って良い)とトリオで演奏させてもらった。
丹橋さんは若かりし頃東京で演奏活動をされてい、和歌山に帰ってこられたと後に聞いた。僕はその時結婚をしていたはずだから出会ったのは2003年か2004年の頃か。最初は得体の知れない、、、という表現がぴったりの風貌に僕もうまく話せなかった。ぼそぼそと呟くような語りとボヘミアン的な風貌は大袈裟ではなく畏怖をすら感じた。年もだいぶ上だったし、おそるおそる喋ったことを鮮明に覚えている。丹橋さんを知るにつれ、それは演奏する機会があったからだが、そのナイーブで優しい人柄に打ち解けていった。実際、大袈裟ではなく、天使のような人だった。(これは関わった人なら例外なくうなずくだろうと思う。今も丹橋さんのような人には会ったことがない。)数回、丹橋さんと本田さんとでセッションをし、僕がやりたいjazzをお願いしてトリオを組んでもらったのが最初だと思う。普段は丹橋さん、本田さんはスタンダードをホテルなどで仕事されていたはずだ。2005年の9月9日。九十九さんで。それが最初だ。いったいどんな演奏をしたのか記憶があまりに曖昧であるが、白浜でフリージャズが流れたことは確かだ。
丹橋さんのベースはブルーズを弾く時特にイカしていた。だからオーネットのブルース・コノテーションをやり、ブロードウェイ・ブルースをやった。

もっとも印象に残っているのは前半が全曲オーネット、後半が全曲コルトレーンの最後期のみの曲のライヴで、これも九十九さんで演奏させてもらったと記憶するが、丹橋さんのベースソロはとても攻撃的でクールだった。(記憶では九十九さんの何周年かの日にもそのトリオで演奏し、いつかのライヴでは九十九さんのお店の取材とともに、「るるぶ」かなにかに大きく掲載されたりもした。このトリオはだから九十九さんとともにあったと言って良い)

その後、僕は表現の場を東京を中心にし、離婚もし、ジャズからも遠ざかった(つまり大きく変わったのだ。なにもかも)から必然お会いすることはなくなった。この4,5年で九十九さんで一瞬お会いした1回だけではないだろうか。いや、もう少しあったか。(いやに記憶が曖昧だ)いつも古久保くんには丹橋さんの様子を聞いたが、古久保くんも最近は会ってない様子だった。つい昨年の暮れも丹橋さんの様子を聞いた。古久保くんが「濱地さんと丹橋さんと本田さんのトリオ今だから、聴いてみたいような、、、」と、言っていた光景を思い出す。その時の僕の内部には「それは、、、」という言葉しか浮かばなかった。

いつでも会える、、、そんな不確かな、あまりにも不確かな認識は愚かだとわかっていたはずだが、決定的に失ったものを前にすると言葉も出ない。

僕は故あって、丹橋さんと親しい人たちと距離をとっているから僕自身のやりかたで追悼した。

それしか出来ないのだ。