hamaji junichi

composer saxophonist

web版「埋没する3つのbluesに捧げるcondensed music」

作曲作品「埋没する3つのbluesに捧げるcondensed music」のweb サイトがアップされています。
一番下にスクロールすると初演の映像が観れます。映像作家・池田泰教さんによる映像も作品の思想とリンクした手法が為されています。
独立した作品と言えます。

http://www.shimaf.com/maibotu/







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作曲/saxophone:濱地潤一
sound programming/sound processing:福島諭
スピーカ・デバイス協力:高橋悠+香苗 (Tangent Design Inc.)

『respice finem』 @画廊fullmoon 2012.5.12 にて初演

記録:Sound Recording ウエヤマトモコ
記録:Cam&Edit 池田泰教
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以下は初演に際してのノートの加筆、削除を含む修正文である。

「埋没する3つのbluesに捧げるcondensed music」に関するノート



「埋没する3つのbluesに捧げるcondensed music」の最初の着想は偉大なjazz manのbluesのソロを「譜面に書かれたもの」として再現し、録音したものをコンピュータ処理によって解体、再構築することがひとつ。言うまでもなく、jazzはテーマ部の和声情報をもとにした即興演奏により成立する音楽であり、テーマ部以外は譜面に最初から書かれたもの、または書かれることを想定する音楽ではなく、その瞬間、瞬間に編まれた音の組織であり、音楽であるが、録音媒体に保存されたそれら名演は今や譜面としても残されている。それを作曲されたものとあえて想定し再現したものを現代的な文脈にのせることをまず考えた。架空の作曲作品として。繰り返される12小節の和声進行のシステム。blues。(bluesの和声構造は12小節の普遍的とさえ言える決まった和声構造から成り立っていて、他のjazzのたとえばA-A-B-Aのような構造体ではなく一種の独立した世界とも言える姿を持っている)

 
「jazzに今、何を見るか」、、、その問いはいつもどこかにあったように思う。

構造としてのjazz。思想としてのjazz。現代音楽という文脈に干渉するjazzという文脈。言い方は様々可能だが、つまり新たな概念化を夢想することからこの作品は始まった。
 
2008年から作曲家・福島諭さんと継続している「サックスとコンピュータの室内楽」作品の文脈上に、jazzをモチーフに選ぶことは当初は考えなかった。数年の継続した対話や、複数の作品を発表した経験をふまえ、今それを選んだのは機が熟したということなのかもしれないし、何かの示唆かもしれないが正直なところわからない。けれど、自らの内部に、思い起こせば常に在った(であろう)「jazzに今何を見るか」という問いにひとつの楔を打ち込みたい願望もあったように思う。しかし、こういった極めて個人的な願望のようなもの、のみで作品を創作することには少なからず懐疑を抱いていて、ひとつの視点の出発点としては機能するだろうが、それだけでは足りない。

 近年、福島さんとの対話でも自身の表白は事ある毎に「祈り」というものを持ち出し、(ここで改めて断っておくがそれは2011年3月11日の震災とはまったく関係がない。「祈り」とは極めて私的なものであり、固有のものだと理解している)自身はそこに何を「見て」いるかを自問していた。作曲する行為と、聴衆が居てそこで演奏する行為。それらはいったい「何に」向けられているのか。
「神」と、ひとまず言ってみる。いや、それはやはり正確ではない。言葉にすればそれは「神」と言っても良さそうなものであっても、それは結局「わからない」ものであるらしい。けれど、その息吹、存在は確かに感じられる。そういった存在としか言いようのない「気配」がそこに在るように思う。
 
 話をもとに戻そう。私の手によって再現され録音されたjazz bluesは題名にあるように3つ。CのbluesとB♭のblues、Fのblues。(譜面に残されているサクソフォンソロであることが条件である。それは自ら採譜したものであっても可能)そして、それぞれの調であるC、F、B♭は順に4度の関係(この関係は守られるべき)である。これを「埋没する」というキイワードのもとコンピュータ処理にかけ再構成するプログラムを福島さんに依頼した。(当初はインスタレーション作品として相談していて、当然そのヴァージョンも存在するが、新潟で初演されるのはサクソフォンのリアルタイム演奏パートが追加されたアルトサクソフォンとコンピュータのための室内楽作品のヴァージョンとなる)インスタレーション作品という想定のもと、そのプログラミングのイメージを言語化し、福島さんに伝え、テスト音源を制作してもらい、それらのテスト音源をさらに細分化し、抽出したものを組み直してもらった。あがってきた数種類のパターンを序列化し、再構成されたものが組み上がった段階で、福島さんから提案があり、その組み上がった素材と同時に生のサクソフォンが演奏されるものを試してはどうかという提案があった。
 その提案をもとにどういったものが「埋没する3つのbluesに捧げるcondensed music」という題名に相応しいか考えた。話は前後するが、この作品の最も重要な思想は題名にある。題名が全てと言っても良いほどに。「埋没する3つのblues」については前段で言及したものがその骨子であり、さらにcondense(濃縮)されたmusic(音楽)としてそこに現れなければならない。埋没し、濃縮された音楽を表出する重要なエンジンがコンピュータであるわけだ。

 


 12小節のbluesが3つ。それらの調の関係を表す4という数字とサクソフォンのリアルタイム演奏の調の関係を表す3という数字。4度の世界と3度の世界が同時に在る「世界」と半ば強引に設定し、この作品の隠れた思想として機能させている。3+4=7 7はミルトンの「失楽園」に登場する7つの大罪に始まり、キリスト教ユダヤ教では意味の在る数字として知られている。また、例えば諸説あるが3は神を現し、4は人間を表すとか、あるいは4つの福音を表す等、数字に重ねられた思想、物語性も内包しているように、少なくとも作曲した者としては意識していることを記しておきたい。
 

 「捧げる」は一方では祈りとともに献上する意もあるが、もう一方で「葬る」という意も内包している。残酷ではあるが、美しいものにはある種の残酷さと表裏一体であるからこそ、そこに物語性もうまれ語り継がれてきた側面があるように思う。
 

 こういった概念、思想は当然のことながら音楽作品である以上、常に音楽的美に向けられている。交錯する2つの音韻、音響(コンピュータによって「埋没」されたbluesとサクソフォンのリアルタイム演奏)は濃縮された音楽を表出させ、一見混沌としている世界にも映るかもしれないがそれらを支えている言語的(つまり音楽理論外の)概念、思想は整理されてい、なおかつそれぞれの音楽的概念、思想に結びついている。それら異なる異物の「構造」が2つ走り、交わり、混濁した様相を持って複雑な「世界」に見えても、耳を澄ませばそれらは完全に制御された「世界」であり、今現に現れたひとつの、、、「世界」、、、捧げられた「世界」なのである。

 ある「気配」に捧げるために。「埋没する3つのblues」に捧げるために。ここにも2つの意味がレイヤードされている。


 ある「気配」に捧げるために、、、

2012年4月某日〜30日 濱地潤一