hamaji junichi

composer saxophonist

おおお、、、阪神、どうしました?直接対決でまくるつもりでしょ?そうなんでしょ?

昨日BSを見ていると太宰治の「きりぎりす」がドラマ風の朗読劇で放送されていた。あんな奥さんが居たらそりゃあんた、幸福通り越して死んでも良いでしょう、、、今すぐに。といった女性の独白である。男にとって、というか太宰の頭脳が生んだ女性像なのだからそりゃ素晴らしいに決まっている。そうして、実在するはずのないものだからますます神々しき光を帯びるという寸法である。芸術である。その存在が。夫は絵描き、画家である。まったくわけのわからない作品を描いている。でもその奥さんは「わたしにしか彼の作品はわからない」と言い切るのである。そうして、ずっと誰にも相手にされず貧困のまま時は過ぎるはずだった。でも夫はひょんなことから売れ始める。そうして、立派な俗物になっていくのである。それから、、、、

まったく端整な女性の語り口。「きりぎりす」は多分死ぬほど読んでいたはずなのに綺麗さっぱり忘れていた。もう太宰を読まなくなってしゃれにならないほどの月日が経ったようだ。太宰の独白形式の作品、ことに女性の独白からなる作品はとても美しい。井上靖が日本を代表する作家をあげるとするなら、それはやはり太宰でしょう、、、と語っていたのを思い出した。一見(ここがミソなのだ)感傷的に過ぎるようなことをあの美文、名文で芸術にまで高めることができ、そこに1滴の真理を忍ばして、グサリとやられるのだから天才以外の何物でもない。

石川淳の「太宰治昇天」をふと思い出す。愛情に溢れすぎて、読んでるこちらまでその文章に同化してしまうような強烈な追悼文学だと記憶に刷り込まれている。太宰の心中に際して書かれたもの。

安吾は太宰の心中を信じなかった。

石川淳は「私の読者はせいぜい千くらいのものです。それ以上相手にしてられません」とか言っていたような。違ったかな。

安部公房ははっきりと異常な数の読者など相手にしてられないというような意味のことを言っていた。それと混同しているのか、いや、そうではないような気がする。

最近はまったく純文学を読まなくなったが、昨日のきりぎりすの放送でちょと何かを思い出したような気がする。

腰抜けのインテリが無責任な平和を能天気に語るのを見て、「安吾読めよ」と思うのは私だけではないでしょう。

戦争という巨大な、、、からはじまるあの醒めきった安吾の頭脳を思い出すのです。

すいません。調子にのりすぎたようです。