hamaji junichi

composer saxophonist

福島諭さんに薦められ、江國香織作品を読む。決まったタイトルを特に薦められたわけではないが、
本屋さんで「きらきらひかる」他数冊を手に取った。(他に薦められたヘッセの「知と愛」は無かった。)私も言うことをきくのである。「きらきらひかる」とても良かった。作品に登場する人物がまさしくキラキラとひかっていた。実際の生活において、あんなキラキラひかるひとたちが登場(とても密接な関係で、という意味だ)したら、、、と夢想したくなるが、そうはいかない。世は常に残酷である。だから「残酷物語」を読まなくても人生は残酷なのだから良いのであろう。

気はもちよう、、、とは言うが手遅れな人々にとっては「気付いて」しまったものをそうやすやすと捨て去ることは出来ない。

と、カスみたいなことを書いてお茶を濁す

天才チャーリー・パーカーの曲を1曲まるまる吹く。それをあほみたいにずっと繰り返すのである。何も考えずに。実際は何も考えずに吹いたりするのは愚の骨頂だが、たまにはそうしたいという欲求がある。

天才塚本晋也監督の新作「tetsuo」を観る。音楽でも「聴いたこと」のないものを欲するが、映画でもそうだ。他では観れないという強度。天才の所以である。

チャーリー・パーカーの亜種は多く存在するが、パーカーはパーカーの演奏でしか経験できない。

「まるでサイコのスタイルでリメイクされたカフカ、、、」j.g.バラードの「コカインナイト」の一節。この一節でこの作品を愛するに足る。

天才クリストファー・ノーラン監督「インセプション」を観る。まるで壮大なシンフォニーを「見る」ようだ。緻密に構築されたプロット。背後に在るスコア。
劇場で観たかったが、地元ではこの超話題作ですら公開されなかった。恥ずべき事態である。

新作「バイオハザード」も観る。「インセプション」も日本、東京がロケされていたが、海外の映像作家が録る日本は日本の作家が撮るものと質感がまったく違うのは何故なのか。

基本的に白人は日本人に偏見、はっきり言えば明確に(気持ち良いぐらいに)差別意識を持っているが、この2本にはそれは感じられなかった。

でも海外ではごく容易にそれを認識できるのは変わらないのだろう。