hamaji junichi

composer saxophonist

小川洋子著「やさしい訴え」を読み終わる。音楽が登場する小説で音楽にまつわる様々な描写やシーンが滑稽に描かれていない稀有な作品としても、自分が密やかながら音楽に関わるものとして抵抗なく読み進めることができて、物語に入り込めた。登場する三者の不思議な関係性(触れ合い)と物語の終わりに、ふっとため息をつくような作品で、ああ、読んで良かったと思った。
解説で(普段は解説は読まない)音楽家の方が(だから読んだ)ドビュッシーのことにふれていた。ピアニストの方で、その「やさしい訴え」のチェンバロ製作者が他人がいる場で指が動かなくなった元ピアニストという設定からドビュッシーもそうだったと書かれていた。それでピアニストにならず作曲家になったのだと。ドビュッシーは僕のアイドルの一人だが作品を愛するが作曲家の人となりや物語などはほとんど興味がないからそれは知らなかった。ドビュッシーは完璧主義者で、自分の楽譜の指示どおり弾かないピアニストを絶対に許さなかったみたいなエピソードは知っていたけれど、完璧主義者故に、二人以上聴衆がいるとたちまち指が動かなくなる(おそらく高次のレヴェルでほんの些細な破綻も赦さない故に。素人には言うにおよばず、玄人でさえ聴き分けられない領域だったかもしれない。そういう領域はある。)人だったと書かれていて、ドビュッシーのエピソードとしては教わって良かった。


日課にもどる。



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日課を吹く。新作で、来月に初演の「埋没する3つのbluesに捧げるcondenced music」の為のものもそのひとつ。サクソフォンとコンピュータの為の室内楽作品だが、もともとはインスタレーション作品として発案(そのヴァージョンもある)し、サクソフォンのリアルタイム演奏パートは想定になかった。コンピュータを担当する共同作曲者の作曲家・福島諭さんの提案でそのヴァージョンも作曲しませんかということで、昨年の夏あたりには取りかかったように記憶している。来月はそれを初演する。この作品、2011年から概念の骨子をやりとりし、それが思想とよべるようなものに結実するまでにも数ヶ月。それが音としてたち現れるのに一年あまり。他のことなど出来なかった。それにリアルタイム演奏パートは改めて自身の演奏の領域を一から更新しなければならないもので良い時期に発表の機会が得られて良かったと思う。その初演のお知らせはまた後日させてください。



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小説「やさしい訴え」を読んでいたからチェンバロ曲を聴くつもりでバッハの6枚組みCDを聴き始めたと書いたけれど、その1枚目を聴いて、そしてずっとそれを繰り返して聴いていてチェンバロ曲になかなかいかない。ミサ曲やカンタータばかりのディスクでもう、それこそその「世界」に「埋没」したい思いだ。キリスト教に傾倒するわけでもなく、むしろ無神論者に近いがこの静謐さと崇高さ、神々しさの甘美な誘いはなんなのか、、、と思う。モーツァルトの「レクイエム」も事ある毎に愛聴するが、完璧な「世界」に「見える」。この完璧さは他では感じることの出来ない種類のもので、例えば死があのように訪れるのだとしたら、、、と考えたりする。なんの不満もない。もしそうなら、、、と。言うまでもなくこれは生きているから「そう見える」にすぎないことであっても、それはやはりほんとうのことのようにも思われる。しかしながら「誘い」はいつも甘美であるとは限らない。祈る者とは、、、常に疲弊し、皮膚と血と心臓にじゅくじゅくと侵食するように溜まった永年の疲労の澱に疲れ果てていて、その「誘い」だけが光をもたらすと思えなければ生きてはいけないようなものでなければならない。そして、祈りを捧げる者にとっては安息が最後の望みであるはずだ。だから、ここにある「世界」は完璧でなければならない。作曲家がそう考え音符を五線譜に記したと、、、