hamaji junichi

composer saxophonist

重構造

「録音された様式としての即興という概念が交換されうる対象としての機能」

福島諭さんから7月にお願いしていた試み、前述の作品が届いていた。

http://mimiz.org/index.php?ID=995


数日三重でぼんやりし、濃い緑と澄みすぎる空と風が在る何も無い町に居て「こういう暮らしも悪くない、、、」とはやはり思わなかった。祖母が居なければ多分行かないであろうし、時間が遅過ぎるぐらい遅く進むのには慣れない。時間を買う為には金が要るとはけだし名言だが、そういった恵まれた想念を持つ事を赦される人種がどれほどいるのか私には皆目見当がつかないが、世の中には信じられない程「稼ぐ」奴がいる、、、というのも本当だろう。何もやることがないのでドストエフスキーの「悪霊」を読み(何故か夜には読む気がしないので昼に読む。明るい時間しか読めないのだ)ドスト氏の小説にはカラマーゾフでも、罪と罰でも、何千ルーブリ云々のやたら金の話が出てくる。

三重から帰り、福島さんが送ってくれたその作品の音源を確認した。自分から送った「即興演奏曲」が4楽章分あり、それぞれ、それを演奏した意識の言語化されたものを総括した印象のポイントが文章として添えられてあり、この作品の最も重要な問題はその意識の交換であり、福島さんもその意識(それを読むことによって生ずる意識)をもたれてプロセッシングをされた。意識の流れ、思索し演奏される即興というフォーマットをわざわざ「様式」と呼び「概念」のフォルムをその内部で形成する道筋は音として表出する以前の行為であり、音それ以前の問題である。そして今、ここに表出している音楽はその「概念」を背後に、または底に走らせていて、実際に鳴っている音と、背後のそれぞれのその意識が同時に実存している。つまり問題とはそういう視点を具体的に有しているという意識であり、音楽は音とは関係がないという物語を一瞬思い出させもする(ここは今思いつきで書いた。どこで読んだのだろう。まったく思い出せない)

届いた音源にはそれぞれの楽章に鮮やかな差異をもったプロセッシングが機能していて、福島さんとは随分長い間、様々な試みを互いに経験しているのだが、それらとは趣が違った印象を受けた。

サクソフォンとコンピュータ、コンピュータとサクソフォン、両者の融合。

ポスト室内楽、、、

fade out