hamaji junichi

composer saxophonist

高嶺格「ジャパンシンドローム〜ベルリン編」

砂山典子さん(ダムタイプetc)が参加される高嶺格さんの作品。

映像作家前田真二郎さんも参加されます。IAMAS映像チーム。

以下転載です。




高嶺格「ジャパンシンドローム〜ベルリン編」
10月5日(土)19:10~20:00/京都市役所前広場にて/無料
パブリックプロジェクション+パフォーマンス
主催:KYOTO EXPERIMENT(京都国際演劇祭)

*このイベントはインターネットでライブ配信されます。Ustreamの画面右側のボックスにコメントを書き込むか、
ツイッターハッシュタグ「JS_berlin」からコメントを送ると、それがプロジェクションされる(かも!)。

Ustream: http://www.ustream.tv/channel/js-berlin
公式ツイッタ:https://twitter.com/Takamine_kex
海外(日本語以外)からのコメントも熱烈募集します。
みなさま拡散よろしくお願いします!
京都EXPERIMENT: http://kyoto-ex.jp/program/tadasutakamine/




「ジャパン・シンドローム」シリーズについて

[背景]
 高嶺は、2011年から連続してKYOTO EXPERIMENT(京都国際演劇祭)に参加しており、そのプロジェクトは「Japan Syndrome」という名称で統一されている。「ジャパン・シンドローム」とは、アメリカ映画の「チャイナ・シンドローム」に想を得た名称で、福島の原発事故以降、大きく揺れ続ける日本の状態を言い表した言葉である。今後も長い将来に渡って社会の根幹に大きなダメージを与え続けることが確実な放射能の問題、この問題にアートがどう関わるか?

[ジャパンシンドロームのこれまで]
 映像シリーズ「Japan Syndrome」は、役者が町中に出かけ、商店などで「この食品はどこ産ですか?」「放射能は大丈夫ですか?」などと(極めて遠慮深い調子で、さりげなく)質問し、そこで交わされた会話を舞台上で再現した映像作品である。これまで、関西、山口、水戸の三カ所で三つのバージョンが制作され、三カ所の他、オランダのユトレヒト, トルコのイスタンブールでも展示された。
 このシリーズの目的は、放射能を巡る大量の情報が、どのように人々の間に伝搬していくのかを探ることである。放射線が生物に与える影響については、科学者の間でも意見が分かれる。つまりその多くが解明されていない。そんな中、人々は「自分の信じる情報を選択する」という、過酷で不条理な選択を強いられている。その選択のプロセスには、日本政府の見解、マスメディアによる報道、加えてインターネットからの雑多な、しかし時に有用な情報が、複雑に絡まった形で参照される。また、近親者や職場の人間関係は、個人の判断を許さないほど強力に「選択する上での縛り」として働く。
 このビデオで明らかにされるのは、自分の属する組織(会社であれ地域であれ)との関係の中で、原発に対する態度を選択した人々ーー自分で選択したにしろ選択させられたにしろーーが、組織以外の「他者」に対してどのような振る舞いをするかということである。それは、「目に見えない放射線」という物質が人間に及ぼす「目に見えない作用」、つまり「関係の分断」という形で現れる。本来、どれが正確か選ぶことなど不可能な情報、それを選択させられる過程でどんどん分断されていく日本社会。このビデオは、人々の分断の過程を描いたドキュメントである。


[ジャパン・シンドローム〜ベルリン編] by 高嶺格
2013 年、高嶺はDAAD(ドイツ学術交流アカデミー)の招聘でベルリンに一年間滞在しています。当初、今年のKYOTO EXPERIMENTでは、日本版と同じ映像シリーズとして「ジャパン・シンドローム〜ベルリン編」を制作し発表する予定にしていました。脱原発をいち早く宣言したドイツの人々が、このテーマに対してどのように反応するかに興味があったからです。「ベルリン編」は、ドイツで制作された同じシリーズのひとつとして、京都市役所の建物にプロジェクションされる予定で構想されていました。しかしその後、いろいろなニュースを見るにつけ、原発を巡る人々の分断が、思いのほか早いスピードで進行しているのではないかという危惧を持つに至りました。原発に「賛成または反対」する声の「中間」(グレイゾーン)の人々が、突然いなくなってしまった気がしたのです。これは個人的な印象です。しかし、もしそうだとすると、「ベルリン編」を市役所の壁に投影したとして、誰が見るだろうか?つまり「見る人は見るが、見ない人は見ない」で終わってしまわないだろうか?「ジャパン・シンドローム」シリーズは、もともとグレイゾーンの人々を想定して作られた作品なので、もし状況がそうなのだとしたら、同じフォーマットで作られた「ベルリン編」はあまり意味をなさないのかもしれないと思い始めました。人々が分断された状態というのは、とても不幸な状態です。本来は、人がそういう状態を望んでいるはずはないのです。しかし原発を巡る様々な憶測の中で、望む望まないに関わらずそういう状況に陥れられてしまったーー私にはそのように見えています。つまり今の日本は、非常に不幸な状態にある。そこでベルリン編では、これまでの(問題提起的な)フォーマットを踏襲することをやめ、より直接的な形で、この「分断」という問題に関われないかと思いました。誰しも経験あるように、いったん壊れてしまった人間関係は、修復が難しい。逆に壊すことは簡単にできます。その、容易な方の「壊す」という態度が優勢な中、難しい方の選択肢である「修復する」ということをやってみたいと思います。ベルリンとは直接には関係ありませんが、ベルリンで考えたこと、それが京都という街で、ライブの現場で形になる。荒唐無稽なアクションに見えるかもしれませんが、表現におけるひとつの挑戦として、見て、参加していただければと思います。