hamaji junichi

composer saxophonist

for dance school 

変容の対象8〜9小節目を福島諭さんに送る。最初は感覚的にメロディーめいた旋律によって組織していたが、見事なくらいつまらないものが出来そうでいやになり、中断。基本的に感覚に無条件で寄りかかるのは危険である。と、常に思っていたことをいまさらながら自戒して、組織しなおす。自らの感覚をまったく自分は信じていないともいえるし、信じているともいえる。ただ出発点は感覚に懐疑的であるべきだ。と思っているのも事実だ。極論ですが、イデアとは極端にふれるほうが視界がすっきりするものではないでしょうか。


composition,impressionIIの録音を明日に。譜面を整理して書く。



昨日の夜中は福島諭さんのダンススクールのための作品を聴く。
もう何度目かになる。トラック1〜3があり、私はトラック1に惹かれた。
これは初めて聴いたときもそうであり、何度聴いてもそうであった。
後にお伺いすると、トラック1は本番前日のもの。
トラック2はリハ、3は本番と伺った。
2と3はその「場」にとても影響されるなかでの作品なのだが、それをお伺いするまでもなく、初めて聴いた時、それと感じた。福島さんもあえて先に私にその情報を与えたくなかったそうで、上野の改札でそう仰っていた。
トラック1の端正な音の佇まいは、やはり福島さん自身がその音のみと対峙した表れのように思える。
構造の揺れ、揺らぎさえも「構造的」に聴こえるのは福島さんの制御が行き届いている証のようでもあり、ある静粛さも感じられる作品だ。
とはいえ、トラック2,3の制御を超えた瞬間の美しさもあるポイントでは意識を覚醒させるし、なによりトラック1〜3に低通する「響き」の一貫した美にはやはり福島さんの個性が否応なしに表出している。というのも多くの福島さんの作品を聴いているものとして、あの名状しがたいイノセンスな「響き」は私には手の届かないもののようにいつも聴こえるし、今作品もそうであった。音響情報としてはアナライズ可能なもの(それはある部分に限定した場合だが)であるにもかかわらず、それを超えたところに結節しているように「見える」あの「響き」はもっと聴いていたい気にさせられる。そしてそれは、エクストリームなmimiZの作品群にもはっきりと聴こえるのだ。