hamaji junichi

composer saxophonist

contemptの音源をさらに聴きかえす。少し抽象的すぎるか、、、と思う。
ソロのほうは何故か途中でデータがなくなっている。無念。

もう少しピアノとサックスのヴァージョンはシステマチックな音の残像が印象に残るようなものにすべきではないか、、、とも思う。少し考えてみたいと思う。中心軸といえるmodeを変更したのは成功した感触をもったと昨日書いたが、そのmodeをもとに組織したいくつかの譜面を用意して、任意に挿入可能にするものはどうか。基本的には同曲は複数のmodeを複雑に即興的な処理をその場で選択する方法がとられるが、それら独自のmodeの結節点(note)を結ぶまとまった定型言語としてあらかじめ構築されたフラグメントを挿入するといった感じだろうか、、、固定された和声情報と美しく干渉する瞬間のみ、その一瞬のみの表出を主題とするなら今のままでも良いが、やはり抽象的すぎると昨日は感じた。少し時間をおくべきかも。
ただ、時間をおくといってもその思索は毎日継続されるべき性格のものであるのは疑いようもない。しばらくはこういったことをすべき時期だとも思う。











ファーストガンダムのテレビシリーズを観る。第1話、シャアの「認めたくないものだな、、、自分自身の、若さ故の過ちというものを、、、」この台詞でこのおとこまえのその後が決定された。超名台詞。選ばれしもの(作家です)のみが発するという感じだ。

ところで、ブライトさん19歳なのね、、、もっと上だと勝手に思ってました。

正月もあいも変わらず映画を観続けていて、名作の洪水にあてられてました。



映画も色々あるが、全体を貫く速度というもがあって、それが静かに淡々と流れる物語の描写のむこうに見えたとき私はしびれてその監督が好きになるという、、、






このところ、やたら「無駄を排す」ということを、それがさも正義のように嬉々として語られているが、そもそも「無駄のない」社会、人生が豊かなのか、貧困は無駄など入り込む隙もなく、貧困がもたらす数々の悲劇をおもえば、、、
これは飛躍した思いとは思えない。これほどまでに肥大した社会を機能させるためには無駄の領域がある意味で豊かでないと不全をおこすことは当然といえる。
そして、したり顔で「無駄を排せよ!」と声高に叫ぶ輩は例外なく生活の破綻の恐怖を知らない。