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《変容の対象》2019年12月第6−7小節目を福島諭さんに送る。
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《変容の対象》2019年12月第4−5小節目を福島諭さんに送る。
精神を削られている、、、とはっきり自覚するような場合、作曲にどう影響があるのか知らないが、今月書いているものはそういう気配すらない。唯一の救いである。
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映画「ジョーカー」を見てきた。遅ればせであるが、ただ地元では数日前からの劇場公開でありレイトショーで。お客、私ともう一人。どうかしているが地方都市の救い難い民度の低さは今に始まった事ではない。あんな良い映画、全くもったいない話だ、、、と帰りながら思った。とは言っても自分も褒められたものではない時間の過ごし方を散々してきてしまっている。それを改めるにはこういう時間が必要だ。あと、やはりサックスを持って「それ」あるいは「それら」概念に対峙する時間のなんと豊かなことか、、、と昨日、今日で改めて思った。それはつまり昨日、今日のその他の無駄で無価値な時間の反証であり、骨身に沁みたのである。今更楽器の習得の「地獄」を声高に叫ぶつもりもないけれど、やはりそれは真実であり、「それ」を通過して見えるものはある種の宗教色を帯びてそこに佇む。その時間のことだ。
「ジョーカー」激しくおすすめしておきます。
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《変容の対象》2019年12月第1小節目を福島諭さんに送る。
疲弊しきった感覚だけあり、悶々〜太宰治の「悶々日記」(内容は全く思い出せないけれど)ではないけれど嫌な気配だけが自身の内部に確かに脈動しているというのだけはわかる。
煙草も昔ほど旨くなくなったような気が心なしかするのである。
こうして夜中覚醒しきったような底冷えの空気を頬に感じながら譜面でも書き、傍らのギターでも弾き過ごせれば良いのであろうか、、、そうではないような気もするが、そう言った想像力しか持てないのであろうかとも思う。先日福島さんの2018年の新作のスコアと音源を送ってもらった。作曲家自身からいち早く作品の具体を見せてもらうのはとても贅沢なことだ。最近日頃はサックスを持つ時、数年前の「チャタヌーガ」というサクソフォン・ソロ曲の一節を吹く。なんとなくスコア化が遅れている作品ではあるけれど、気になっていることの一つでどうにか改定しスコア化をしないといけない。そう福島さんの新作をもらっておもった。それにはまず環境を無理やりにでも変えねばならない。それはわかっているのだけれど、そうはさせてもらえない。悶々〜の原因の一つでもある。
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《変容の対象》2019年11月も昨日でfineを迎えた。
福島さんは昨日夜発表があり、その帰りにメールをくれて締め切りまでの2、3時間ギリギリまでお願いしますとやり取りをした。変容の対象という交換作曲作品も今年で11年目である。11年の間にはこうした互いの発表が締め切り間近のこともそれは何度もあったわけで、そこをどうにかやり過ごして書いてきた。久しぶりにリンクを。
よければ楽譜と音源があるのでご覧ください。音源はmidiですが。
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ブーレーズ全集、ウェーベルン全集ときて今はペンデレツキを順に聴いていっている。ペンデレツキは全集のようなものは知る限りないけれど、持っているものを繰り返し聴こうとするが、ブーレーズやウェーベルンのように延々同じCDを長ければ一月近く聴くというような感じではない。ブーレーズ、ウェーベルンはとにかく記憶に容易に留まらない。トータル・セリエズムなり、12音技法という技法というものの構造がそれに大きく起因しているけれど、容易に掴むことを赦さない。ペンデレツキは記憶に留まる。
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映画「ジョーカー」がようやく地元の映画館で公開されたらしい。近く行かなければならない。
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安寧な生活をしたいと切に思う。全く愚かな時間を過ごす。これでは疲れるばかりだ。