G.F.G.S side-B works label [SEWN UP] satoshi fukushima chamber music remixes
G.F.G.S レーベルからリリースされた福島諭 室内楽作品集
[CD] 室内楽 2011-2015 / 福島 諭 | G.F.G.S. ONLINE
のremix アルバムSEWN UP
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に参加した作家のインタビューシリーズ
よろしくお願いします。
interview 01:junichi hamaji
CD関係
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[CD] 室内楽 2011-2015 / 福島 諭 | G.F.G.S. ONLINE
オンラインでアルバムsewn upがアップされています。
既発のCD福島諭/室内楽 2011-2015のremix アルバム。
G.F.G.Sのウェブも見ていて楽しいサイトです。ボーダTシャツのブランド。
「日々《変容の対象》8月」7 追記
《変容の対象》2020年4月第11−12小節目を福島諭さんに送る。
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「日々《変容の対象》8月」の初演が終わり、翌日大垣のホテルを後にした。名古屋駅に着き、あんかけパスタ「チャオ」に行こうとしたが新幹線の時間の関係で結局店の前まで行ったけれど断念。(まだ開店前だった)あんかけパスタというと僕は此処で名古屋の人、ピアニストの山内敦子さんと楽屋でその話を幾度かした。山内さんといえば、一緒に福島さんに撮ってもらった写真がとても気に入っている。お願いして映画「イースタンプロミス」のウィゴ・モーテンセンが劇中やっていたポーズを一緒にやってもらったもの。
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ゴールデンウィークは自宅をほぼ出ることなく過ごすだろう。小説「都市と都市」はヒューゴ賞、ネビュラ賞などをとったらしいが、一応最後まで読むだろう(もうあと数ページだ)けれどそれほどのものだろうか、、、これら2つの賞といえば輝かしい作品が列挙されるけれど今回は、、、ただ適当に本屋で選んで買いためている小説(本来は作家で買っている)の中には途中で読むのをやめるものも多くあり、未知の刺さる作家への投資というか遊びだからそう落胆はしないけれどやはり文章にも強度というのは確かにある。
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楽屋では僕の服が昨日も今日も軍モノなので(実はブランドのレプリカだったり、reconstractionものも多い)前田さんに「これからどこに行くの?」みたいなやりとりもあった。今日も今度はalpha industriesのアメリカ製のレプリカではない実際使用された昔のN-3bを洗濯し、これも実際のecwcsのセカンド・ジェネエーション(ファーストのパーカーが一番カッコええけれど)のgore-texジャケットを洗濯し家でこもる時間がいつ終わるとも知れないけれど、そうこうしているうちにn-3bも着れない季節が訪れ、ecwcsもギリギリ着る時期には間に合わないだろうけれど、光り輝く忍耐を身に纏い、、、、というランボーの「地獄の季節」、、、今はまさに、、、
リンクは前田真二郎さん、変容の対象、山内敦子さんのもの
「日々《変容の対象》8月」 6
前田真二郎さんと初めて会ったのも名古屋だった。2009年頃だったと思う。何かの演奏の後、福島さんも同席してレストランに行った。その時の光景の断片は今でも鮮明に自分の頭の中にある。前田さんの作品「日々」は2004年の「日々”hibi"13full moon」から2008年からの「日々”hibi”Aug」シリーズ等がある。毎年8月の31日間にワンカット15秒ずつ撮影される作品も昨年で12年目を迎えた。長い時間をその後付帯するであろう作品が2008年と2009年に始まり、今同時間に結節点を持つ。
特筆すべきは前田さんの考案した映像送出の技法で《変容の対象》の譜面を読んでリアルタイムに「演奏」すると言うシステムであり、舞台上に立つ3者が譜面という同一メディアによってそれぞれ生成させてゆく現象が走ってゆく。完全なアンサンブル形態であるということだ。
その結節点をその場で作曲者として体験できたことに静かな感慨も持ちながら作品のことを今反芻している。今日も《変容の対象》2020年4月第9−10小節目を書いている。そうやって僕の日々は今もここに在る。
写真はすべて福島さんによる。鏡に映っているのが福島さん。
「日々《変容の対象》8月」 5
僕も福島諭さんもある程度実際の演奏家が演奏する《変容の対象》を「経験」しているし、また《変容の対象》という作品の成り立ち、そこに通底する哲学、長い時間にによって生成されたヴィジョン、あるべき姿は、当然それぞれ持っているわけで、演奏家に伝えておきたいこともその都度、その演奏家に伝えてきていた。実際、演奏家の中にある《変容の対象》は時間の経過で作品自体の「成り立ち」の理解の像が結ばれてゆくことを知ることもあって、最初の作品への印象から「ああ、なるほどこういうことだったんだ、、、」と奏者から感想を伝え聴くこともあって、作品の構造に重層的な視点が介在している(二人の作曲者がいて、謂わば二つの脳の思考、指向が同時に走っている作品であることは案外口に出してこう言ってしまうより複雑な現象を演奏家の理解野の領域に浸透しづらいものなのかもしれないことは幾度か経験している)から、演奏が、ある間違った方向に行ってしまうこともある。
ただ今回の山内敦子さん、木村佳さんの演奏は前年のイアマスでの試演の時から常に「安定」した演奏だった(これは驚くべきことだった)から僕と福島さんもあまり多く注文を出すこともなかった。